ゲームの勝ち負けを決める要素として、実力やら運やらを語る時に はたと気づく。所詮システムの思惑に踊らされているだけなのだ、と。 自分の中に虚しさを見つけた時に我々はそのゲームの事をこう呼ぶ。 「所詮、これは、システムゲーだね」 よく考えればどんなだってシステムゲーだろ。自分の中の虚しさを払拭したい という苦し紛れにこう呼ぶだけなのだ。神を呪う言葉なのだ。 姉さん、事件です。 本に書いてある考え方をただそのまま飲み込んで自分の思想であるかのように 振る舞うことができれば、楽しいからね。 人間が嫌いなのではなくて、怖いんだろう? この世界じゃ、自慢なんかしたって一文の得にもならないのに。自慢はしては いけない。確か今年度の抱負として掲げたはずなのに。自分の性格の悪さを 露呈しちゃった。 初めて千葉県に言った。千葉県には、道路交通法を守らなければいけないとか いう法律でもあるのだろうか。 そう思ってしまうほど、どの自動車も徒歩の人を優先に、いちいち横断歩道の 前で一時停止してくれる。逆に私が今住んでいるこの辺はテキトーだ。すぐ に交番もあるし、白バイやら自転車に跨って何やら見張っているが、速度さえ 守れば、多少の信号無視にはあまり関心が無いらしいのだ。 「迷子」ディレック・ナボコフ (和訳;枚方) 私は文学を志したのだが 神は私の味方でしょうか ある人が答えた。信じる者は救われる でも私が思うに、私は神の玩具ではないのだ 壁に貼り紙がしてあった。「め」とだけ書かれてある。目、眼のことに違い ない。私はそう思った。壁に眼。「いつでもお前を見ているぞ」とかかな。 帰宅する電車の中でその貼り紙のことをまた考えた。目は二つないといけない のだ。だって二つあるから見てるものまでの距離を測るのだから。三つ以上 目のある動物なら知っている。一つしかない動物はあるか?蜘蛛は目が八つ あるという。身体をぐるりと囲うように8つが配置している。必ずしも 偶数である必要もないし、ましてや2の累乗である必要はないはずだ。 隣り合う二つを使えば距離は測れるのだから、7つであってもいいはずだ。 一つ黒く塗りつぶそうと蜘蛛を捕まえようとしたがすばしっこく逃げた。 しかし目が一つしかないとは。壁に目あり、いつでもお前を見ている。 単に光を受容する為だけの目かもしれない。つまり、光の強さと色くらい しか分からないのだ。植物に目があると言えるか。光を受ける受容体は 無い。しかし葉は光を受け、赤い色のみを吸収する。茎は葉に光があたるように 光の方向に伸長する。横方向からライトを当て続けて1ヶ月育てた植物の写真を 見たことがあるだろうか。全体として目として働いているのでないか。 光の強い弱いしか分からないけれど。じゃあ動物と植物の間はどうだ。 ミドリムシだとか。目をつぶると小さな小さな虫がランダムウォークしている のを見つけ、私は慌てて、あ!瞼の裏に虫がいる!目を開け、今見たのは 何だったのか、確認しようともう一度目を閉じ虫を探した。
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